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沖縄の秋
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ふと気が付くともう10月です。

秋も深まりと言いたいところですが、沖縄ではまだ蝉が頑張って鳴いています。

だいぶ涼しくなってきましたが、日中はまだまだ暑いのです。

先日は突然、車のクーラーが壊れ、汗をかきながらの運転でまいりました。

早く涼しくならないかと思うばかりですが、年中花を咲かせているハイビスカスは、今日も涼しげに風に揺れていました。
# by takeuchisumio | 2005-10-02 22:12 | 沖縄
美しき花たち
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# by takeuchisumio | 2005-09-30 22:55 | 自然
41歳からの哲学
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『勝っても負けても 41歳からの哲学』
池田晶子さんの新刊本です。

人生とは何か。
大切なのは、結婚?お金?名声?出世?
生きる意味を問い直す、
大人のための考えるヒント。(本の帯より)

では本文より

「言葉の力を侮ってはならない。人は言葉なしには生きてゆけないのだから、言葉とは、すなわち命なのである。死ぬ時にもまた、人は必ず言葉を求める。「死ぬとはどういうことですか。」必ず人は問うのである。このとき初めて、人は正しい言葉を求めるのだ。間違った言葉で救われても、救われたことにはならないからである。」

「人は、わかるのは、自分がわかるのだと思っている。しかし、よく考えると、これはどうもそうではないのである。わかるのは自分だから、自分がわかるのだと人は思うのだけれども、しかし、わからないことをわかろうと一生懸命努力をする。しかし、わからないものはどうしてもわからないとは、誰もが経験するところである。しかし、わかる時には、どういうわけか、「あ、わかった」という形で、人はわかる。その経験は、その意味で、自分の努力ではない。「わかる」はどこか別のところからやってくるというか降ってくるというか、どうも自分の力によって起こるものではないのである。じゃあ、いったいそれは何の力なんだ。逆に、「自分」とは何なんだ。」

「しかし、よく考えてみると、「自分」というのは、ちっとも自明ではないのである。どこまでが自分で、どこからが自分でないのか。脳が自分なら、心臓は自分ではないのか。体は自分なのか、自分のものなのか。考えれば、自分なんてものは全く不明瞭、ある意味での観念だということがよく分かる。鋭敏な古代人はそのことを知っていたから、自分なんてものにはこだわらなかった。そして、目とは目の神様、手とは手の神様だと、こう考えた。自然そのものを神とするなら、この方がよほど真相に近いだろう。」

「まず自分にならなければ、人生は始まらないのだ。逆に、自分になるということこそが、人生なのだ。賢さとは、そのような過程として自覚された人生において、自ずから現われてくるような知恵だろう。それは、世に言う「頭がいい」「デキる」とは重なる部分もあるし、重ならない部分もあるだろう。ある部分では、真っ向対立するとも言える。自分である、もしくは自分になるためには、世の要領なんぞ、どうでもいいことだからである。
言葉というものは、そんなふうに、我々に人生の本質を指示するものだと、私は考えている。だから、本質的ではない言葉もどきを並べたような本なんぞ、本の形はしていても、本すなわち「書物」の名には値しないのである。要領伝授のハウツー本が氾濫し、まともな書物が存在しない書籍市場で、私が『14歳からの哲学』という本を書いたのには、そんな意図もあった。そこにはいかなる要領も書いてない。そんなもので子供が賢くなるはずがない。人が賢くなるのは、本質的な言葉により、自分で考えた時だけである。」

毎日ついつい、テレビのスイッチを入れてしまいがちですが、時には自分を考える静かな秋の夜を過ごすのもいいのでは。
# by takeuchisumio | 2005-09-30 22:42 | 内面への旅
融通のきかない一神教
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よく日本人は無宗教だと言われますが、実はそうではありません。
ただ漠然としているに過ぎないのだと思います。

忘れてしまった歴史を取り戻せばいいのです。
日本に決して神がいないわけではありません。
私たちに日本人にとっては、古代より神=自然でした。

逆に、日本人をそのように見ている方がおかしいのかもしれません。

たとえば、キリスト教はもともと自然=神であるところを切り離してしまって、本来の神の姿を歪めてしまっているのではないでしょうか。
日本では荒ぶる神という言葉がありますが、キリスト教の神は、ニーチェが言っているようにいつの間にか「理想」になり、「純粋な精神」になり、「絶対者」になってしまっています。

よって、その神様は唯一であることから融通がききません。
異なった文化を認められないのです。

その点、八百万の神々がいる日本はどうです、じつに寛容で懐が深いと思いませんか。
# by takeuchisumio | 2005-09-30 00:02 | 内面への旅
41歳からの哲学
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さて大人はどう答えるか - 善悪 (『41歳からの哲学』より)

子供の非行に歯止めがかからないので、文部科学省が慌てている。
「抽象的にではなく言葉で善悪を教えよ」と、大臣が言ったとか言わないとか。かなりのパニックであることが、この発言からもわかる。抽象的にではなく具体的にしようとすると、「市中引回しのうえ打ち首」ということになるのだろうか。いずれにせよ、あまり実効が有りそうには思えない。
大人たちがパニックになるのは、実は自分たち自身が、善悪の何であるかを知らないからに他ならない。知らないものは教えようがない。彼らは、自分たち自身の無内容を改めて知り、実はそのことに慌てているのである。
子供に善悪を教えるにはどうすればいいか。おそらく彼らはとりあえず、「万引きは悪い」「売春は悪い」「人殺しは悪い」と教えるだろう。しかし、もしこれが「教える」ことであるなら、「なんで悪いの」という子供の問いには、答えられなければならない。教えるとは、自分が知っていることを教えることのはずだからである。さて大人はどう答えるか。
おそらく答えられない。あるいは苦しまぎれに、「悪いものは悪い」「悪いに決まっている」と、答えるかもしれない。それなら子供は言うだろう。「だって大人だってしているじゃないか」
じっさい、警官が泥棒したり、教師が買春したり、互いにわけなく殺し合ったりしている大人の口から、言えた義理ではあるまい。善悪を教えること自体の偽善を、子供は正しく看破するのである。
ではどうするか。皆がしているからといって、悪いことが善いことになるわけではない。これを教えなければならないのである。なぜ善いことは善いことで、悪いことは悪いのか。
ほとんどの人は、善悪とは社会的なものだと思っている。人に迷惑をかけなければ何をやってもいいのだと、実のところは思っている。「自分さえ善ければ善い」という言い方が、端的にそれである。これをもう少し巧みに言うと、「自分に正直に生きたい」となる。自分に正直に買春し、自分に正直に殺人するのも、法律に触れなければ、善いことなのである。
しかしこれは間違いである。善いということは、社会にとって善いことなのではなく、自分にとって善いということなのである。おそらく、殺人者とて言うだろう。「自分にとって善かったから殺したのだ」と。
この時の「自分」が問題なのである。普通は人は、自分は自分だ、自分の命は自分のものだと思っている。だから、自分の生きたいように生きてなぜ悪いという理屈になる。
むろん悪くない。いや正確には、人は自分が善いと思うようにしか生きられない。だからこそ、それを善いとしているその「自分」の何であるかが、問題なのである。
自分の命は自分のものだ。本当にそうだろうか。誰が自分で命を創ったか。両親ではない。両親の命は誰が創ったか。命は誰が創ったのか。
よく考えると、命というものは、自分のものではないどころか、誰が創ったのかもわからない、おそろしく不思議なものである。言わば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。ひょっとしたら、自分というのは、単に生まれてから死ぬまでのことではないのかもしれない。いったいこれはどういうことなのか。
こういった感覚、この不思議の感覚に気づかせる以外に、子供に善悪を教えることは不可能である。これは抽象ではない。言葉によってそれを教えるとは、考えさせるということだ。考えて気づいたことだけが、具体的なことなのだ。
気づいてのち知る善悪は、何がしか「天」とか「自然」とか、そういったものに近いはずだ。人が、個人などという錯覚を信じ、天を忘れるほど、世は乱れるのは当然である。しかしそれも、たかだかここ数百年のことにすぎない。古人たちは知っていたのだ、「天網恢恢疎にして漏らさず」。

ぜひ、『41歳からの哲学』お読みになってください。
ご紹介もこれぐらいにしておかないと池田さんに怒られそうです。
# by takeuchisumio | 2005-09-28 13:11 | 内面への旅



写真と日々の雑感を気ままに綴ります
by takeuchisumio