『勝っても負けても 41歳からの哲学』 池田晶子さんの新刊本です。 人生とは何か。 大切なのは、結婚?お金?名声?出世? 生きる意味を問い直す、 大人のための考えるヒント。(本の帯より) では本文より 「言葉の力を侮ってはならない。人は言葉なしには生きてゆけないのだから、言葉とは、すなわち命なのである。死ぬ時にもまた、人は必ず言葉を求める。「死ぬとはどういうことですか。」必ず人は問うのである。このとき初めて、人は正しい言葉を求めるのだ。間違った言葉で救われても、救われたことにはならないからである。」 「人は、わかるのは、自分がわかるのだと思っている。しかし、よく考えると、これはどうもそうではないのである。わかるのは自分だから、自分がわかるのだと人は思うのだけれども、しかし、わからないことをわかろうと一生懸命努力をする。しかし、わからないものはどうしてもわからないとは、誰もが経験するところである。しかし、わかる時には、どういうわけか、「あ、わかった」という形で、人はわかる。その経験は、その意味で、自分の努力ではない。「わかる」はどこか別のところからやってくるというか降ってくるというか、どうも自分の力によって起こるものではないのである。じゃあ、いったいそれは何の力なんだ。逆に、「自分」とは何なんだ。」 「しかし、よく考えてみると、「自分」というのは、ちっとも自明ではないのである。どこまでが自分で、どこからが自分でないのか。脳が自分なら、心臓は自分ではないのか。体は自分なのか、自分のものなのか。考えれば、自分なんてものは全く不明瞭、ある意味での観念だということがよく分かる。鋭敏な古代人はそのことを知っていたから、自分なんてものにはこだわらなかった。そして、目とは目の神様、手とは手の神様だと、こう考えた。自然そのものを神とするなら、この方がよほど真相に近いだろう。」 「まず自分にならなければ、人生は始まらないのだ。逆に、自分になるということこそが、人生なのだ。賢さとは、そのような過程として自覚された人生において、自ずから現われてくるような知恵だろう。それは、世に言う「頭がいい」「デキる」とは重なる部分もあるし、重ならない部分もあるだろう。ある部分では、真っ向対立するとも言える。自分である、もしくは自分になるためには、世の要領なんぞ、どうでもいいことだからである。 言葉というものは、そんなふうに、我々に人生の本質を指示するものだと、私は考えている。だから、本質的ではない言葉もどきを並べたような本なんぞ、本の形はしていても、本すなわち「書物」の名には値しないのである。要領伝授のハウツー本が氾濫し、まともな書物が存在しない書籍市場で、私が『14歳からの哲学』という本を書いたのには、そんな意図もあった。そこにはいかなる要領も書いてない。そんなもので子供が賢くなるはずがない。人が賢くなるのは、本質的な言葉により、自分で考えた時だけである。」 毎日ついつい、テレビのスイッチを入れてしまいがちですが、時には自分を考える静かな秋の夜を過ごすのもいいのでは。
by takeuchisumio
| 2005-09-30 22:42
| 内面への旅
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